「氷川女體神社」

「氷川女體神社」

 <トムソーヤクラブ通信vol.81、2006/6/01、ふれあいランドより転載>

■ゴールデンウィーク期間の好天の一日、地域の小学生十数名と共にさいたま市緑区にある緑地、見沼田んぼ:見沼代用水東縁~西縁にいたる15㎞ほどを散策した。代用水の水面を軽やかにすすむカルガモの親子を見送り、橋の欄干下の静かな陽だまりで日光浴中の体長1mほどのアオダイショウと挨拶を交わし、氷川女體神社を初めて知った。そのなまめかしい名前に驚かされた。

■現在のさいたま市、川口市にまたがる見沼田んぼは縄文時代後期の海がひいてできた沼地「見沼」だったそうな。見沼は御沼とも書かれ、古代の農耕民族が沼の神への祈りをこめて出雲の神を祀ったのが、沼を囲む台地に位置する「大宮氷川神社」「中山神社」「氷川女體神社」の三つの神社の始まりだと言われている。

■そして見沼代用水は1727年(享保12年)8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛という人によって造られた農業用水路。江戸幕府が開かれ、関東平野では米を作るために新田開発が盛んに進められたが、その水源のひとつとして「見沼」の一部をせき止め、「見沼溜井」が築造された。100年の後、将軍吉宗の時、この見沼を水田として開発することになり、見沼溜井を水源にしていた水田と新しい水田の両方へ、新たに水の豊富な利根川から水を取ることとし、延長約90Kmに及ぶ大用水路が造られた。

■この水路は見沼に代わる用水路ということで「見沼代用水路」と名前がつけられた。何回かの改修を経て、今でも15,400ヘクタールの水田などを灌漑している。また、減反のため使われなくなった広大な水田の跡地は緑地公園として、たくさんの人の憩いの場となっている。

■見沼代用水には、日本最古の部類に入る閘門式運河の「見沼通船掘」があり、代用水に沿った村々からは年貢米を始めとして、野菜や薪などの産物が江戸へと運ばれていった。江戸からは主に乾鰯や大豆粕といった肥料、塩などの商品が運ばれたという。

■残念ながら、代用水の舟運の光景は想像に任せるしかなかったが、氷川女體神社という発見をきっかけに、縄文から江戸にいたる地域のあり様を知ることができたのは、心地良い風を感じながらの散策以上に予想外な収穫だった。

参考:つくばリサーチギャラリー農業技術バーチャルミュージアム

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